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無農薬栽培の作物ってドコで買うの?

奄美でミカン栽培

無農薬栽培の作物って

植えたばかりのミカン【津之輝】に小さなバッタが大発生。薄緑の新葉を片っ端から美味しそうに齧っていました。

おそらく土の乾燥防止に株の周りに置いた枯れ草の山が発生を誘発したのでしょう。

そのまま何もしなければみかんの葉は全滅です。取り急ぎ「スミチオン乳剤」の散布で対処。

虫の発生源となった草を除去した翌日。虫はほとんど消えていました。

手持ちの農薬でバッタに効果があるのは、スミチオンとベニカ水溶剤しかなく、ベニカは浸透移行性殺虫剤でどちらかといえば遅効。動きの速いバッタに逃げられてしまうので、即効性を考えてスミチオンにしたのです。

発生した大群を一匹ずつ手で駆除するのは不可能だし、追い払ってもすぐに戻るしで、農薬で退治しないとミカンが駄目になってしまう。

バッタが憎いわけではなく、もしミカンを育てていなければ「ああ自然の風景は良いなあ。虫も可愛いらしいもんだ」となるでしょう。

【無農薬栽培】 イメージ先行の非現実さ

農薬は是か非か?まずそれ以前の問題として・・

農薬が残留した果物や野菜なんか食べたいとは思わない。誰でもそう思うだろうし、僕も同感です。

(そもそも農薬が作物に残留しないよう厳格な規制があり、厳しい検査もあって、世間でいわれるほど危険性はありません)

ではどこの店に行けば無農薬の作物が買えるか知っていますか。僕は売っているのを見たことがないです。

完全に無農薬で育てた作物は見た目が汚くなり、小売店はそんな商品を置かないからです。

もし無農薬作物が売っていたとしても、「農薬は嫌」と言った人でもその商品を買わないと思いますよ。虫食い痕があり、小汚い作物を買う人は今の時代いないでしょう。

オーガニック専門店に行くと、有機栽培した減農薬の作物が売られていますが、値段が高くてあまり売れていない。それに完全に無農薬で育てたものは無に等しい。

【無農薬栽培】という言葉の一人歩き。

それが現実でありながら、農薬栽培を悪し様に憎々しげに批判する人の多さに驚きます。

この高温多湿で山林が多い日本と、肥沃で広大な農地がある外国を単純に比べる人も多い。「外国に比べて日本は農薬使用が多すぎだろ」とかね。

では自分の手で無農薬栽培にて作物を作ってみればどうか。何を栽培しても、すぐ虫に食い荒らされて呆然とするのは確実。農薬アレルギーの方は、酢水など吹きかけてみるでしょうけど、何の効果もないので一匹ずつ手で駆除してみてください。その苦労たるや・・・

この国で有機無農薬栽培をやろうと思えば、沢山の使用人を奴隷に等しい境遇で働かせるしかなく、江戸時代でもあるまいしそんなことは不可能。

数千万円をかけて機械化してもなお人手が必要な農地ばかりなんですよ日本は。山だらけの国ですから。労力を厭わず減農薬で頑張っている方もいますが、「減農薬」だからギリギリ可能なのであって、「完全無農薬」というのは絵に描いた餅のようなものです。

きつい労働のあげく有機無農薬作物を作ったとしても、「キレイ好き見た目重視」の日本人は誰も買ってくれない。

別に農薬使用を推奨しているわけでも、使用を擁護してるわけもないのです。できれば無い方が良い。ただ現実がそうなっているというだけ。

農家は無農薬では売れない作物になるから仕方なく農薬で見た目の良い商品を作り、消費者は無農薬作物は買わないくせに農薬使用を嫌うという現実。

将来的に企業が参入し、クリーンなAI工場で作物を大量生産するようになれば変わるかもしれません。ただ近い将来ではないでしょう。わざと複雑にしているとしか思えない「仕組み」はそう簡単に変わらないからです。

当分の間この「仕組み」が変わる可能性はまったくなく、「農家は高価な農薬代金の負担にあえぎ、消費者は農薬に不安を唱えつつ、見た目のキレイな作物しか買わない」そんな矛盾した悲喜劇のような光景が続くでしょう。

農協団体や農政を中心とした「仕組み」は、農家や消費者のためにあるわけではなく、机の上で計算してる人や高級料亭で会食している人たちの為に存在しているようなものです。(だから変わらない)

現場で生産する人やそれを買う人は疲弊して行き、中間にいる簒奪者に等しい者だけが潤うという。矛盾だらけで動く社会のシステム。

老人が長生きして幸せになれる国でもないのに、無理やりにでも延命させ、健康志向とかで嫌煙や糖質制限が喧伝され、急に地球のために脱炭素。無料の買い物袋を有料にしたり。ダイオキシンがどうのと農家にまで焚き火を禁じたり。そんな流れの中で農薬もターゲットになると。

世界的に貧富の差が拡大しているからか、人々の心から余裕が無くなり、やたらと規制が増えて片方では弱者叩きの炎上。憎しみが転嫁され増殖し、息苦しさ生き辛さが進行し、他人の顔色ばかり気になる社会。

だからこそ表面的に「絆」だの「人との繋がり」だの「トモダチ」だのという言葉が溢れているんじゃないか。

SNSというのがありますね。これは若い人や起業した人が世間を広げる為、とても有効なツールだと思います。無料だし、大いに活用すべきでしょう。とくに商売人は使うべき。

ですが僕のように引退して田舎に引っ込み、世間を広げるどころか逆に付き合いを縮小し折りたたんでいる老人にはそんなツールはいりません。

いまさら世間を広めてトモダチと繋がる気持ちなんてまったくないのです。老いてもなお活発な人はいます。でも静かに余生を送りたいと望んでいる者も多いのですよ。

ところが携帯各社ときたら、全国民にもれなくスマホを持たせようと必死です。世間を広げる気もない(ネットにも興味がない)老人にまで強引にスマートフォンを売りつける(通話だけでもよい人の選択肢を奪っている)

老人の多くがネットなど興味がなく、あってもスマホの操作ができない。それを知りながらそういう挙にでるのは、ガラケーの3倍以上の月額料金がとれるからでしょう。

一時が万事、どの方面でもこういう社会になりました。
他者よりも自分ファースト。政治家も大企業も役人も一般人も心に余裕がなくなり、他人の心を忖度できないというか、他人を自分の利益のために犠牲にしてもよいという詐欺師に似た心のありかたというか。

国や自治体、マスコミが、やたら「きれいな事」ばかり強調するのが目立ち、その裏では「おもいやりの欠片もない冷たい人間」が増えて行くという。これは何でしょうか。貧富が拡大すれば表顔と裏顔の乖離も際立つという理屈なのか。

つい脱線して愚痴ってしまいましたが、言ってもどうにもならない事です。大きな流れは個人の力では止めようがない。アマゾン河の濁流を、手にしたベニヤ板で堰き止めるようなもので、たちまち流れに翻弄されてのみ込まれます。

誰にも止められないのなら、行き着くとこまで行くしかない。それがどんな場所であってもです。大きな変革や再生は、その場所からしか始まらない筈ですから。

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